[2025_12_08_06]江戸幕府の初代将軍・徳川家康は「討伐」されるはずだった…秀吉と家康の運命を変えた「大地震」_鎌田浩毅_京都大学名誉教授(現代ビジネス2025年12月8日)
 
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江戸幕府の初代将軍・徳川家康は「討伐」されるはずだった…秀吉と家康の運命を変えた「大地震」_鎌田浩毅_京都大学名誉教授

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 列島誕生以来、地震・噴火・津波などの自然災害の脅威に絶え間なくさらされてきた災害大国・日本。いくつもの巨大災害が、日本史上にその名を残してきた。平安時代を揺るがした「貞観の大津波」、近世では「宝永の富士山噴火」や「安政南海地震」、近現代では「関東大震災」や「阪神淡路大震災」、そして「東日本大震災」……。歴史を大きく塗り替えた自然災害はなぜ発生し、日本にどのような影響を与えてきたのか。浮かび上がる「歴史の法則」とは――壮大なスケールで日本史を捉えなおす新連載!

 本記事は、『日本史を地学から読みなおす』(鎌田浩毅・著)を一部抜粋・再編集したものです。

 「戦国の世」のはじまり

 応仁の乱から長く続いた戦乱の世も、ある戦国大名の登場によって、ようやく終わりを迎えます。その戦国大名とは、織田信長(1534〜1582)です。1573年、室町幕府の第15代将軍である足利義昭(1537〜1597)が京都から追放され、室町幕府が事実上、滅亡しました。室町時代(戦国時代)が終わり、安土桃山時代が始まりました。

 ただし、天下人となった織田信長の時代は長くは続きませんでした。1582年、明智光秀(1528?〜1582)の謀反(本能寺の変)によって、信長は命を落とします。信長の家臣だった豊臣秀吉(1537〜1598)(当時は羽柴秀吉)は、すぐさま明智光秀を討ち、以降、信長の後継者としての発言力を増していきます。1585年には、秀吉は武士として初めて、天皇を補佐する役職である「関白」になり、その地位を確実なものとしました。

 秀吉と家康の運命を変えた地震

 そんな状況の中、中部から近畿の広い地域で大きな地震が発生します。1586年1月(天正13年11月)の「天正地震」です。最初の大きな揺れは天正13年11月29日の深夜に発生しました。その2日後にも大きな余震があったとされています。

 被害の発生地域が広く、どこが震源地であるかは特定されていませんが、中部地方の活断層である「庄川断層帯」や「阿寺断層帯」がずれ動いて発生した可能性が指摘されています(図「天正地震を発生させた断層帯」)。つまり、直下型の内陸地震だったということです。地震の規模は、内陸地震としては最大規模のM7.8程度だったと推定されています。

(図「天正地震を発生させた断層帯」)

 すさまじい揺れによって、広い範囲で山崩れが起きました。各地の城も被害を受けており、美濃(岐阜県)の大垣城が全壊・焼失したほか、三河(愛知県)の岡崎城や、近江(滋賀県)の長浜城も大きく損壊しました。城や家屋の倒壊によって、各地で多くの圧死者が出ました。
 なかでも甚大な被害が出た城が、岐阜県の白川郷にあったとされる帰雲城です。深夜に発生した大地震とそれに伴う大規模な山崩れによって、帰雲城はその城下町とともに大量の土砂に埋まってしまいました。

 地震発生当時、帰雲城には城主である内ヶ島氏理と多数の臣下がいました。天正地震によって城の背後にあった山が崩れ、内ヶ島一族は城もろとも生き埋めとなりました。一夜にして全滅してしまったのです。
 天正地震はまた、徳川家康の運命を変えた地震であるともいわれています。秀吉は、自分のいうことを聞かない家康を討とうと準備を進めていました。そんなときに天正地震が発生し、三河(愛知県)にいる家康を討伐するための前線基地だった大垣城(岐阜県)が全壊しました。
 秀吉自身も琵琶湖沿岸にあった坂本城で大きな揺れに遭遇し、大坂に逃げ帰ったといわれています。地震の被害によって戦争どころではなくなった秀吉は、家康討伐を中止したのです。

 巨大地震によって晩年の秀吉の居城は倒壊

 1590年、豊臣秀吉はついに天下統一を果たします。全国の武将たちが秀吉の支配下に入ったのです。1592年、秀吉は隠居後に暮らす城として、京都に伏見城を建設しました。
 ところが伏見城は、近畿地方で発生した大地震によって倒壊してしまいます。伏見城を倒壊させたのは、1596年9月(文禄5年閏7月)に発生した「慶長伏見地震」です。地震発生時の年号は「文禄」でしたが、直後に「慶長」に改元されたため、地震は慶長伏見地震とよばれています。

 慶長伏見地震を発生させたのは、大坂平野の北側を東西に走る有馬─高槻断層帯だと考えられています(図「慶長伏見地震を発生させた有馬─高槻断層帯と近畿地方の主要な活断層」)。都市の直下で起きた内陸地震であり、M7.5程度だったと推定されています。

 伏見城の倒壊によって、城内にいた600人ほどが犠牲になったという記録があります。なお、秀吉は難を逃れて無事でした。京都のみならず、大坂や兵庫など近畿地方の広い範囲で建物が倒壊し、建物の下敷きになるなどして多くの死者が出ました。
 慶長伏見地震によって京都や大坂が大きく揺れた数日前、実は豊後(大分県)でも巨大地震が発生していました。それが「慶長豊後地震」です。この地震は、別府湾の海底にある活断層である「別府湾─日出生断層帯」がずれ動いたことで発生したと考えられており、M7.0程度と推定されています。海底がずれ動いたことで津波が発生し、別府湾の沿岸にあった町は壊滅的な被害を被りました。

 2つの大地震が発生した1596年には、浅間山も中規模のマグマ噴火を起こしています。この年は、日本がいくつもの大きな自然災害に見舞われた年となりました。
 慶長伏見地震によって倒壊した伏見城は、約1キロメートルはなれた場所で再建されることになりました。1598年の夏、新しく建てられた伏見城で、秀吉は62歳の生涯を終えました。

 秀吉の死によって時代は大きく動きます。新たな天下人を目指す徳川家康(1543〜1616)と、それに反発する石田三成(1560〜1600)らの対立が深まり、やがて国を二分する戦いへと発展していくのです。
 1600年、岐阜県の関ヶ原で、両者はついに決戦のときを迎えました。天下分け目の「関ヶ原の戦い」です。その詳細については、講談社現代新書の近刊で、話題を呼んでいる『シン・関ヶ原』(高橋陽介著)などをご参照ください。

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